ネットで賑わいを見せている掛け算順序問題について私の意見を書かせてもらいます。
なぜこの記事を書くかというと、様々な意見をみて自分の考えを整理すること、それから世間一般でこの問題に触れる方が知りたいのは「どちらが正しいか」ではなく「このように教育されている我が子にどう説明すべきか?」であろうと想像し、それに対する答えが「先生に合わせるしかない」「単位のサンドイッチで切り抜ける」くらいしかまともな答えがないという状況に一石を投じたかったからです。

この記事だけ普段の私のブログ内容とは *大きくかけ離れている* ので、この話題には興味があるが他の話題にはあまり興味が無い方は別のページは見ないことをお勧めいたします。
特に R-18 のイラスト、漫画(へのリンク)などがあったりするので、少年少女諸君、及びそういうたぐいのものに嫌悪感を示される方は十分ご注意ください。

読者として想定されているのは
・この掛け算問題に興味のある方
・お子さんが該当問題でバツをもらってきて、でもなぜバツかわからないのでどうしようか困っているご両親の方々
・小学校で実際に教鞭を持っている方
のいずれかです。なるべく数学的な難しい話は避けるつもりですが、この問題は現役の数学者(の一部)の方々も興味を持たれているようなので、そういう方々に向けての注釈的なものも併記します。
ちなみに結論は最後の方にまとめたので、長いのが嫌な方は最後だけ読んでもらっても構いません。

逆に想定されていないのは
・掛け算問題ってなんぞや? という方
・「私がマルかバツかのどちらかで採点しなければならないとして、どちらで採点するのか」という意見を求めている方

で、この質問に関しては私は今回(とこれ以降も)触れるつもりはありません。掛け算問題について詳しくは wikipedia の該当項目などを参照してください。

また、私は一応数学を学んでいるとはいえそこまで賢いわけでもないしすべてを知っているわけでもないし、教育学を学んだわけでもない。この問題について調べ始めたのも1ヶ月程度前の話だし、この問題に関する十分な論文や文献をあたったわけでもない。参考にしているのは基本的にネット上で上がっている引用論文などの知識だけなので、論考が不十分だという点には目をつむっていただきたい。
(特に私の意見を援用して「この人がこういうことを言っているから正しいに決まってる」とするのはやめていただきたい。援用するのは自由だとは思いますが、これはあくまで一個人の考えであるという点には注意していただきたい。)

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まず掛け算問題とは
「『お皿が8枚あって、それぞれにりんごが6個ずつ乗っています。りんごは全部でいくつですか、式と答えを書きましょう』という小学2年生程度の文章問題に対して、「8*6=48 答え48個」とすると式がバツで答えがマルなのか、それともどちらもマルなのか?
という論争問題です。(以降掛け算はすべて*で表記します)
ここで式と答えどちらもバツという事例があるのは知っていますが、あまり多くないので今回は触れません。

ここで、8*6=48 でも 6*8=48 でもどちらでも良いと主張する方々を「可換派」、 8*6=48 はバツとする方々を「非可換派」と、それぞれこの問題の習慣に則って呼ぶことにします。

まず、この問題に対して可換法則とかそういう言葉を持ち出す人は少し論点がずれていて、何故かと言うとここでは「立式」が問題なのであってその計算結果がどうなるかとかは問題になっていない(だからこそ答えにマルが付いている)。逆に可換法則はまだ習っていないからとか、掛け算は普通非可換とかそういう反論は的外れもいいところです。

この問題のポイントは「立式」の解釈と、式の「意味」。この2点です。まずは「非可換派」の主張と思われるものを、私なりに解釈して書きます。

まず立式しなさいと言われた時に「答えを求めるための式」を書くのか「状況に即した意味を与える式」を書くのか分けなければいけません。仮に前者だとすると 8*6 でも良いし、もっと言えば 12*4 でも 1*48 でも良いはずです。いずれも「1あたりの量」「いくつ分」をそうしたと言えば間違いでもないし、答えは求まるのだからバツにする理由が見当たりません。
なので、ここを論拠にしているようならば当然 8*6 でも 12*4 でも 1*48 でも良いと結論付けるのが筋というものです。が、それではもう答えを書かせるだけで良いのではないでしょうか。
(12はどこから出てきたのか、と言われても「りんごひとかたまりは12個だと思った」とか「1ダース分のりんごが4つと考えたほうが僕は分かりやすかった」と言われれば正解とせざるを得ないはずです。単位をつけるなら12[個]*4[セット]とかですかね?)
通称トランプ配りなどをすると「1あたり量」「いくつ分」が入れ替わるという議論もこれに当てはまります。

ついでにトランプ配りに対して私の考えを述べておくと、「りんごが6個のったお皿が8枚あります」という問題文に対して 8*6 = 48 と答えているのは見たことが無いです。数値が逆順で登場する問題に対してのみ「トランプ配り」で考えたというのは、幾らか不自然な言い訳に聞こえます。

上記の推察から、バツにしているのは「立式」とは「状況に即した意味の式」を書くという意味に捉えることができます。そしてここで「状況に即した意味の式」とは何かを考える必要があるわけですが、そもそも「式の意味」とは何でしょうか。これがもう一つのポイントで、議論が紛糾する所以です。

「式の意味」が果たしてあるのか、それとも式に意味なんて無いのか。これも意見が別れるところですが私個人は「式に意味はある」と思っています。指導要領解説(算数編(1)58p)にも式には意味があると書いています。

こう書くと数学者さんにフルボッコにされそうなので注釈を加えておくと、正確には「文章題などある程度設定が与えられると、式に意味を見出すことが可能である場合が多い」です。数学で 2*3 という式一つを与えられたところで意味はなんだと言われても困ります( 2 を 3 回足すという"操作"として意味づけすれば、それは意味をなしているとも取れますが、有用性を感じませんね)。
これは、数学ではそのような"意味付け"は定義されていない、あるいは定義したところで価値が無いという主張です。
以上のことはあくまで数学の世界の話です。


なぜ意味があると思ったのか、言葉にするより実物を見せたほうが早いので画像で解説します。

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上記の画像、それぞれに足し算または掛け算の式が現れていますが、例えば冷えピタの画像では中身は16枚であることはすぐ分かりますが、それに加えて「普通は12枚入りだけど今なら4枚追加で入っている」という情報を読み取ることができます。チオビタでは(賞味期限が古いのは箱を小物入れにしていたからです)全部で1000ml のドリンクが入っていることに加えて「100mlのカタマリが10本入っている」まで当然のように読めます。麻婆豆腐も同様です。画像にはないですが、足し算で言えば「本体金額+税」というのも該当しますね。
これが、式に意味はあると私が言う理由です。言語化するなら「内容物を具体的に表している」としか言いようが無いのですが、少なくとも一切意味は無いということは言えないはずです。

最後に上の画像、足し算は(基準となる量)+(変化量)、掛け算は(1あたり量)*(いくつ分)となっています。実際他に日常生活で式の形のままのものを探してみると、ほとんどこの形をしています。
このことから掛け算は(1つあたり量)*(いくつ分)で書くという、社会上の暗黙のルール的なものがあると推察します。どれくらいの人がそのルールに従っているのかは不明ですが、商品化するときに統一されるのでしょうか。あるいは私の身の回りのもの(ただし学術書を除く)で調べた結果だけなので、他にも例外がたくさんあるのかもしれません。私は割といい加減なので、こういうのはあまり気にして書くことはなかったですが、私の周りの人はだいたい(1つあたり量)*(いくつ分)で書くようです。

そういった「暗黙のルール」を以って、特に単位を省略して書くと宣言した以上、相手にちゃんと伝えるために形式を統一しますというのはある種自然な考え方とも言えます。
おそらくこの考えが、いわゆる「2本足のタコ8匹」に出てきているのではないでしょうか。

ちなみに、表記が違う例としてよく上がるのが「4*100mリレー」と「レシート」なのですが、リレーに関してはアメリカ発祥でその言い方が定着していたものが日本にきたのでそのままその呼び方になった、というのが正しそうです。アメリカの形式にならうなら、(いくつ分)*(1つあたり量)なので、少なくともアメリカでは順序があっているということになります。
レシートに関しては、会計学の世界で「認識」「測定」「伝達」の順にステップを踏むという常識があるらしく、またそのままの形で式に落としこむというのが基本のようです(あくまで伝聞なので、そうらしいとしか言えません)
そう考えれば、ひとかたまりがいくつあるかを先に「認識」して(数量)その後個々のものがどうなっているか「測定」して(単価)して合計金額を相手に伝える(総額)の順に書くのが、いわば業界の常識となるわけです。レシートはその業界標準と社会一般の常識とが混ざり合うところなので、そうした表記の揺れが観測できるのだと把握しました。


サラッと上で書きましたが、私が「非可換派」の主張は結局「社会の一般常識に照らし合わせて、この順で統一する」に集約されると感じています。

一方で「可換派」の方々の主張も実に明確で、この点に対しては「教える場合はそれで指導したとして、果たして間違いであると断定して良いのか」です。例えば上で上げた麻婆豆腐の画像を少し細工してこのようにしたとしましょう。
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違和感こそあれ、状況は同じようにわかります(とはいえここから単位を消されると、2袋入っているのか3袋入っているのかわからなくなります。一人暮らしの身では一度に3人前食べきるのは難しいので、同じ6人前でも3袋に小分けされている方がありがたいですけどね)
元の問題に直せば 8[枚]*6[個] のどこがまずいんだとなるわけです。少なくともこう書いても、状況を表した式にはなっているでしょう。

単位をつけたうえで通常と逆順で書く(その後単位を削った)とかんがえるのは、果たしてどうなのでしょうか。単位を削る時点ですでに抽象度が増しており、この単位を復元する方法は一意的ではないので、これを社会通念だけで生徒に強いるのは酷でしょう。バツにする理由が「算数的(あるいは数学的)ではない」というのも生徒の反感を買いそうです。

こうしてみると、最終的に「社会の一般通念」VS「学術の理念」の構図になって、我々理学系の人間は「間違いでない以上バツを付けるのはおかしい」となるのですが、一方で「一般常識で考えてこうである」という主張もわからなくも無い。算数はあくまで算数であって、社会で一定の順序で書かれる了解があるのだからそれに従うべきというのも、筋は通っているでしょう。これこそが40年以上議論される所以なのではないでしょうか。

長々と書いてきましたが、どちらの主張もそれなりに頷けると感じたので、どうあるべきかというのはここには書きません。もしかすると問題が悪いというのも一つの解かもしれません。

ただし指導用教科書に「逆順で書くのは間違いである」と書くのはあまり感心できません。せめて「一般的にはこの順で記述するのが普通である」くらいにしないと、本当に「この順で表記しなければ理論的に誤り」と勘違いする生徒、あるいは教諭も出てくるでしょう。私はこの順で書くのは「社会常識ではそう」であって「理論的にそう」であるとは認めません。


最後に。今困っているご両親の方、あるいは教育関係者でどのように順序指導するか(それが正しいか否かではなく上司に迫られてそうしなければならない等で)迷っている方への提案です。

この順序で書かれるべきという社会の常識があるという意見にもっともだと思われたなら、一度「身の回りの掛け算、足し算」を一緒に集めてみてはいかがでしょうか。私自身上の画像のように身の回りの足し算掛け算を探し回りました。普段見慣れているものでも、改めて見るとこんなところに掛け算が、足し算が! という発見があり、思った以上に楽しかったし、みんな律儀に順序を守っているのだなと感心もしました。おそらく「こういうもんだ」と押し付けるより、あるいは「それは先生が何も分かってないから気にするな」と先生と生徒を切り離すより、よっぽど良いと考えます。学校や塾でこういうことをやらないなら、家庭で勉強の様子と我が子の理解力を見るという絶好の機会にもなり得るのではないでしょうか。
「順序は逆でも良いんだけれども、でもみんなが好き勝手書くと喧嘩が起こるよね。だからこうやって書こうって誰かが言い出して、みんなそうしてきたんだよ。だから次からはこの順を守ろうね」で理解が得られればしめたものです。

また単純に「単位のサンドイッチ」で覚えさせるのも、最初は悪くないと思います。ただしそれが真実だと教えてしまうのは良くないでしょう。あくまで「最初の導入」「ある種のテクニック」的なものとして扱うべきで、そのうち1あたり量といくつ分の概念をきっちりと教えなければ(少なくとも小学校教育の)足枷に変わる気がします。テクニックはテクニックであって、それが真理であってはいけません。

ここまで長々と読んでいただきありがとうございました。
(第8回関西すうがくとの集いで講演した内容を整理しました)

P.S.
調べている間、右作用とかそういう概念で捉えるのかという考えてもいなかったものが多分に出てきたので少し混乱していました。ツイッターで「こいつ何言ってんだろ」と思われた方、あのあたりの発言は流していただければと思います。